歴史・沿革

History

蝦夷三官寺 有珠善光寺 国定史跡

名称
大臼山 道場院(おおうすざん どうじょういん) 善光寺
宗旨・寺格
浄土宗・蝦夷三官寺
ご本尊
阿弥陀如来(貞伝作 秘仏 秋彼岸ご開帳) 南無阿弥陀仏
境内
国指定史跡「善光寺跡」(昭和49年指定)
宝物館
国指定重要文化財(62点)、道指定有形文化財(円空仏など)予約制
善光寺リーフレット
824-833(天長年間) 「蝦夷地大臼山善光寺縁起」(国指定重要文化財)によると、慈覚大師円仁(えんにん)が有珠に小宇を造り、阿弥陀如来像を安置したことが有珠善光寺の開基と伝承されている。
1613(慶長18)年 松前藩編纂「新羅之記録(しんらのきろく)」によると松前慶広(まつまえよしひろ)が有珠を訪れ、当時の境内(現在の有珠地蔵堂)に如来堂を建立し阿弥陀如来像を安置し善光寺と称した。それ以前からあった古い堂宇を再興したと云う。
1624-1643(寛永年間) 内地から迫害を受けて逃れて来たキリシタンが当時の境内に織部灯篭を建立したと伝えられている。聖母マリアを観音菩薩のように刻み、上部の膨らみを十字に形どっている。現物は宝物館保管。複製したものが境内と地蔵堂に建立されている。
1666(寛文6)年 全国に仏像を残し旅した美濃国僧侶、円空が有珠を訪れ円空仏(観音仏)を制作し奉納する。
1704(宝永元年) 越前の修行僧 正光空念が有珠を訪れ善光寺について自身の残した「正光空念納経紀(しょうこうくうねん えぞち のうきょうき)」に「如来堂に大乗妙典法華経一部を奉納 願主 正光空念 松前城下より東方へ四十里余り 宇須と申す所あり 慶長年間に武田氏末裔で源姓慶廣が善光寺如来堂を建立す ー中略ー 元禄十七甲申年四月」と記録する。
1716(享保元)年 津軽本覚寺の住職貞伝(ていでん)が有珠善光寺に阿弥陀如来像を奉納する。
これが現在の秘仏の御本尊である。
1791(寛政3)年 6月10日、旅行家で博物学者の菅江真澄(すがえますみ)が善光寺を訪れ9尺×2間程の阿弥陀堂と小さな祠に円空仏5体、貞伝作阿弥陀如来像、弥陀三尊石仏、喚鐘、鐘鼓などの存在を確認し「ねぶちをとなえて円居して、大珠数をくりめぐらし こゝろしめやかに居る」とすでに多くの人々が輪になって大数珠を繰りお念仏を称えていたことが自身の紀行文「蝦夷廼手布利(えぞのてふり)」に記されている。有珠へ来る前に豊浦小幌の洞窟の中にも円空仏5体を確認している。現在宝物館に保管されている円空仏は、洞窟にあったものを幕府役人の松田伝十郎が洞爺湖中島に移したものである。
1804(文化元 )年 江戸幕府徳川11代将軍家斉公(いえなり)が幕府とゆかりのある三宗派「浄土宗有珠善光寺、天台宗様似等澍院(とうじゅいん)、禅宗五山派厚岸国泰寺(こくたいじ)」蝦夷三官寺の建立を決定。ロシア南下政策など蝦夷地の周りに現れていた諸外国への牽制、アイヌ民族へ仏教布教、幕府役人や内地からの出稼人が不幸にして亡くなってしまった際の供養のためである。善光寺は以前の場所から船着場がある有珠会所の近くで広さもある現在の場所に建立が決まる。
1805(文化2)年 春には堂宇建設が始まり朝廷、幕府、大本山増上寺から初代住職に久美浜本願寺の荘海(しょうかい)が任ぜられるが、江戸を出発するも函館で病死。弟子の密成(みつじょう)が遺骨を持って有珠に入った。有珠では翌年まで開山式も行われず住職不在のままという事態であった。
1806(文化3)年 急遽、2世住職に小石川伝通院(でんづういん)鸞洲(らんしゅう)が住職の任にあたり有珠に就く。鸞洲はアイヌ人には濁り酒を振る舞い親しまれた。後に近隣のアイヌ人を交え500余名が境内に参集し百万遍数珠繰りをしたと云われている。一方でロシアの南下政策で緊迫した時は仏旗を掲げ「敵の砲弾に倒れるとも捕虜となって辱めをうけてはならない」と諭したと云われる。浄土宗の教えの要である「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」をアイヌ語に訳し説いた。著書に浄土宗の教えを説いた「後世の枝折」がある。鸞洲に随行した大基が「蝦夷地大臼山善光寺縁起」を記す。翌年「石割桜」を植える。
1814(文化11) 年 3世辨瑞(べんずい)が浄土宗の教えを分かり易く歌にしてアイヌ語に訳して説いた「念仏上人子引歌(ねんぶつしょうにんこひきうた)」(国指定重要文化財)を作り、鉦を叩き踊りながら広めた。他にも念仏の利益を説いた「結縁同行蓮華講中勧化和譚(けちえんどうぎょうれんげこうちゅうかんげわだん)」(国指定重要文化財)がある。アイヌ人には米などを支給して周り「ネンプチカムチ」と呼ばれ親しまれた。
1821(文政4)年 1799(寛政11)年より東蝦夷地を直轄していた江戸幕府が、松前藩に再び蝦夷地複領を命ずる。
1822(文政5)年 2月1日早朝、凄まじい鳴動とともに有珠山が大噴火する。火砕サージと火山灰が虻田の海上まで押し出しコタンを覆い焼き尽くし壊滅的な被害となる。幸い善光寺は風向きの具合で奇跡的に被災を免れ多くの被災者の救護や死者の弔いなどを行った。その後八雲町へ避難。辨瑞は仮住まいとしてそこに阿弥陀堂を建設。文政9年12月、辨瑞が体調不良のため随行僧として来ていた辨定(べんじょう)が仮住まいの阿弥陀堂で4世住職としての入山式を行う。後にこの阿弥陀堂は安政4年に円融寺となる。
1834(天保5) 年 5世辨諦(べんたい)により有珠へ帰還を果たす。有珠会所で仮住まいをしながら本堂を修復。
1855(安政2) 年 松前藩が蝦夷地を複領してから34年後、アメリカ艦隊司令長官ペリーの来航をはじめ諸外国の艦船が頻繁に出没するようになったことや松前藩の蝦夷地経営に問題が生じたため、幕府は再び蝦夷地を直轄する。
1857(安政4) 年 7世住職仙海(せんかい)が寺社奉行へ善光寺末寺の創建を申請。安政から慶応年間にかけて稚内 護国寺、函館 新善光寺、長万部 善導寺、余市 宝隆寺、室蘭 満冏寺、石狩 法性寺など合計13ヶ寺を建立した。情勢の激動や有珠山噴火避難、多くの和人が移住してきたことで3ヶ寺ではもはや対応が出来なくなってきてしまった為である。
1878(明治11)年 イギリス人旅行家イザベラバードが有珠善光寺を訪問し、「有珠は美と平和の夢の国である〜寺から響いてくる鐘の音のこの世のものとも思えぬ美しさ 私が日本で見た中で最も美しい絵のような景色であった」と自らの紀行文に記録した。
1884(明治17)年 11世住職越智專明(えおちせんみょう)が全道各地で出開張を実施、布教活動し多数の寺を建立 復興させた。釧路 大成寺、留萌 天応寺、苫前 豊国寺、豊頃 正福寺、幌泉 善生寺 など。
1937(昭和12年)年

1945(昭和20)年
日中戦争、第二次世界大戦 、太平洋戦争勃発。終戦間近には米国艦隊による室蘭への艦砲射撃があり伊達や有珠へも艦載機による空襲があった。梵鐘も供出された。
1974(昭和49)年 境内一体が国指定史跡「善光寺跡」に指定される。
1983(昭和58)年

1987(昭和62)年
本堂庫裡(くり)の 昭和大改修
2005(平成17)年 公文書版木(はんぎ)、経典、仏具等62点が国指定重要文化財に指定される。
2011(平成23)年 善光寺宝物館がオープン。
2018(平成30)年 本堂、庫裏の茅葺き屋根葺き替え、方丈の間修復等「平成の大改修」
2018(平成30)年 北海道遺産に選定される。
桜鐘楼堂